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本項では、長い長い鬼瓦の移り変わりの歴史を語らせて頂きたいと存じます。
「鬼瓦の~」とタイトルを付けさせていただきましたのも、そういう理由からでございます。
が、鬼瓦の基盤となるのは、言わずもがな「瓦」。
ゆえに本項ではまず、我が国に瓦が入ってきたところから、お話を始めさせて頂きたく存じます。
早速でございますが、 瓦の伝来時期は、仏教が伝わってから遅れること半世紀ののちと云われております。
百済から瓦博士が招かれたのが、その最初でございました。
つまり、本邦の瓦史はおよそ1400年前に開幕したわけです。
瓦博士らが招来された主な理由は、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の屋根瓦を造るためでございました。
ですので、持ち込まれた技術の中には、造形豊かな装飾瓦の製法もあったはずであります。
であるにも関わらず。
実際に古代の寺院などから発見されるのは、仏さまに縁の深い蓮華紋がつけられただけの、単調なものがほとんどなのでございます。
くだんの飛鳥寺の大棟も、その両端に取り付けられたのは鴟尾(しび)という、また別のシンプルな装飾瓦でした。
つまるところ、伝来された技法の中には、鬼瓦のオの字もなかった、ということでございます。
さて。 ここで話は少しそれますが、この時渡来した瓦博士、つまり瓦職人は四人であったと「日本書紀」は伝えております。
一方で飛鳥寺は総工期間が数十年にも及んだ大寺院。
到底四人の職人でその全ての瓦を造り、葺くことは不可能でございます。
そこで集められたのが、かつて瓦と同じように朝鮮から伝来した、須恵器を造る職人たちでした。
なぜなら、彼らが当時の日本で、最も自在に土を成型し、焼くことに秀でた匠たちだったからでございます。
そのような彼らが今度は瓦博士のもとで瓦造りを学んだのです。
おそらく、この須恵器職人たちがのちの瓦職人・鬼師の祖となっていったであろうことは想像に難くありません。
非常に個人的な話で恐縮なのですが、 この遥か昔の、国を超えた職人同士の奇跡的な出会いを想像すると、私はいつも何とも言えぬ感慨に身が震えるのでございます。
それでは、装飾瓦の変遷にお話しを戻させて頂きたく存じます。
と、ことわってはみたのですが、
実は装飾瓦はなかなか変遷しないのですね、これが。
よって、蓮華紋だけの時代がしばらく続きます。
続きます・・・
続きます・・・
続くこと・・・およそ百年弱。
時は白鳳文化期――
ようやく装飾瓦の中に、おうとつの薄いこわもてのモノが登場するようになってまいります。
今では「古代鬼面」と呼ばれる、鬼瓦のご先祖です。
そう。やっと。 やっと瓦に顔がつくわけでございます。
ではなぜ、これだけの時間が経ってから急に、こわもての装飾瓦を造ろうと白鳳期の人々は思ったのでございましょうか。
それは、この頃から寺院だけでなく宮殿などにも瓦葺きが現れてきたことにあります。
そして瓦で屋根を葺くということはその構造上、棟などには何か装飾瓦のようなものを据えなければならない。
かといって、蓮華という「仏さまの象徴」を、人の住まいにも使用することには抵抗がある。
と当時の人が感じたとしても、それは無理からぬことのように思われます。
そこでにわかに「新たな文様を考えた方が良いのではないか」という気運が高まったのではないか。
その結果、魔除けの顔貌を据えるようになったのではないか。
というのが、こわもて顔の生まれた通説となっております。
そして同じ畏れは鴟尾に関しましても抱かれていたようでございまして。 仏閣を除き、大棟に鴟尾を上げたという記録(証拠)がないのでございます。
しかしこの論理が、 日本の瓦文化を大陸の流れから逸れさせ、独自の発展を遂げる分水嶺にもなるのであります。
ところで。
この頃から少し後の世になると、面白い逆転が起きるのでございます。
それは宮殿や役所、邸宅にまで古代鬼面がいきわたるようになった時代のこと。 今度は寺院の方がこの鬼面文(民間の装飾)を、仏閣の屋根に取り入れるようになるのでございます。
(この点の理由は、別ページ「鬼師の考える『鬼』とは」で考察させて頂いております)
ただ、顔がついたといってもこの時代の鬼面の顔貌は、鬼のそれというよりは獣じみた人面でございました。
そのため、しばしば「獣面文」と称されることもございます。
角や耳といった鬼としての要素も、まだ立体的には表現れておりません。
それではなぜこの時代の獣面がこのように扁平なのか。
それは、これが型抜き、つまり手造りではなかったためでございます。
人の手で鬼瓦を造る技術に至れるのは、平安時代末期以後。
再び長い時間を待たなければならぬのでありました。
やがて。
平安末期。
武士の台頭と似た頃から、本格的にいかめしい顔と角らしきもののある装飾瓦が出てくるようになるのでございます。
もっとも、この角も最初は眉が伸びて鋭くなった程度のもののようでした。
それが顔全体の立体感が出てくるにつれ、はっきりと角だと分かる突起部をもつ獣面(鬼面)が出て参ります。
ただ、確認されている限り、現在とは違いこの時代は一角の鬼が主だったようでございます。
「オニ」や「鬼瓦」という現代に通じる呼び方をされ始めるのもこれ以降で、鎌倉から室町時代の間とされております。
では、それ以前はどう称されていたかと申しますと、 ある識者の方によれば「吻(ふん)」という名だったらしいとのこと。
中国から棟端瓦が伝わってきた際、その瓦の呼称をそのままを使っていたらしいとのことでございます。
さて、ここで時代はぐんと進みまして・・・・・・
※記述内容には諸説ございます
2015年11月3日更新