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福井県越前市の鬼瓦工房「北川鬼瓦」魔除け、厄除け、縁起物、手造り鬼瓦、
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鬼瓦の変遷 2

『鬼瓦の変遷 1』はこちらから)

 

時代は南北朝時代へと入って参ります。

面の横に耳が作られるのが一般的になり、 本格的な二本角の物が増えてゆきます。 ようやっと、我々がイメージする鬼の面相に近くなってくるわけでございますね。

室町期の鬼の例

 

この頃までには、顔面が基盤部分から前にせり出す造作が主流となっておりました。

それに伴い、全体に深い彫りや細かい模様も数多く見られるようになってまいります。

この時代には、鬼師たちが、起伏のあるより顔らしい顔になるよう工夫するのが当たり前になっていたのだと推測されます。

(ちなみに、なぜ変遷の先が「鬼」だったのかは、別ページ「鬼師の造る『鬼』とは」にて考察させていただいております)

古い時代の鬼面例2

 

 

 

こうした装飾の発展とともに、鬼瓦の形状もまた変わってゆきます。

元々、鬼瓦の基盤部分はかまぼこ状をしておりました。

 

それが桃山文化を経る間に、かまぼこの右端と左端に足が生え、開脚をするように伸びていったのです。

(下の写真はそれとはまた違うのですが、以降の説明のイメージとしてご覧くださいませ)

古い時代の鬼面例1

そして。現在、元のかまぼこ部分を「胴」と呼ぶのに対し、「足」と呼ばれる部分が誕生したわけでございます。

 

・・・と、
ただ聞くだけでは地味な変化に思えなくもない、この足の誕生ですが、このことによって城や寺社仏閣などの大きな棟に載せた時のしっくり感が増すことになるのです。
大きな場所には大きなモノが似合う、というわけでございますね。

 

そしてまた、この足の部分も、単にのべーっと土の板が伸びているという趣もへったくれもない状態を、当時の施主たちが見過ごすわけがありません。

足には足で装飾が施さられるわけです。
図案としては単調な雲や波だったようですが、装飾部分は増えるわけでございます。

この変化によって、後世の鬼瓦全体の見栄えが上がったことは、申し上げるまでもない事かと存じます。

 

 

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ところで、皆さま。 

ここまで私は当たり前のように瓦のことを「瓦(かわら)」と書かせて頂いてまいりました。
そしてカワラという言葉でございますが、これは日本語です。

が、大陸から伝わった当時は、瓦に該当する言葉はありません。
瓦そのものがないわけですから、当然といえましょう。

 

 

そこで、本節では鬼瓦の歩んできた道程から少し離れ、瓦の方へ寄り道させて下さいませ。 

より具体的に申しますと、カワラという言葉の由来についてお話をさせて頂きたいのでございます。 

と申しますのも、当コラムを書くにあたり私も改めてものの本を多数ひも解いて参りました。 
その中で、カワラの語源については資料により多様な論説が飛び出てくるのでございます。

 

例えば広辞苑。
ここでは、梵語の「kapala(カパラ)」が語源であるとしているようです。
カワラへとなまる元としてはもっともらしい気がいたします。
ただご承知の方も多いかと存じますが、梵語はインドのサンスクリット語のことでございます。そして古代インドと我が国は直接接点は持っていなかった。
そこから逆算すると、本邦の瓦史にインドが直接関係してくるとはあるとは言い難いのではないかと愚考いたします。

 

ではカワラを発明した中国での呼び名はどうか。と調べてみますと、字こそ「瓦」という文字を使っておりますが、その読みは「ワ」だそうでございます。
これでは発音に関係性がございません。

 

一方で。
海外ではなく、古代日本に目を向けますと・・・・ 日本では土器、つまり焼き物を「カワラケ」と呼んでいたとする説があるではありませんか。

とすると・・・文字を持たなかった日本人が、「瓦」の字に「焼き物を意味する言葉」を当てはめた、というのが真相・・・?

などと単純な私などは二つの説を結びつけてしまうのですが、残念なことに、まだ確固たる学説は出ていないのが現状のようでございます。

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ちなみにカワラは、平安時代には 「加波良」 と当て字されていたと当時の辞典は伝えております。
カワラというものが形だけでなく、その文化的な要素まで含め大きく変遷しているのが感じ取れる資料でございましょう。

それは言い換えれば、
瓦がそれだけ日本人の生活に深く根ざしてきたことの証、ともいえるのではないでしょうか。

 

 

閑話休題。
鬼瓦の変遷を巡る旅に戻らせて頂きま・・・
いえ、ここからはもう旅の終着点に向かわせて頂くと申した方が適当かもしれません。

江戸期の例3

鬼瓦は長い間、身分の高い方々のためのものでした。
鬼瓦だけでなく、瓦葺きそのものが力ある方々しか利用を許されてこなかったのです。
その特権性を誇示するためか、わざわざ庶民が瓦を使うことを「贅沢」と断じ、禁じた事さえあったほどでございました。

そのため民家に瓦が上がったのは、江戸も中期に入ってからのことでございます。

それまでの民家は、草葺きが当たり前の時代でした。

ところが、江戸の町は初期から大火に見舞われ、その被害は時の権力者を悩ませるほどのもので――
徳川幕府はついに瓦葺きを民間にも開放する旨のお触れを出すこととなりました。

瓦屋根は、密集した都市において防火性を上げるため、必要不可欠な物であると認められたわけでございます。

 

ここに至って、ようやく鬼瓦が一般の住宅へも載る時代が到来したわけでございます。

ただ、ここでまた問題が出て参ります。
家々が密集した場所で鬼瓦があがると、場合によってその鬼の視線が隣家に向かっているように見えなくもないという問題でございます。

江戸期の例1

ことわるまでもなく、鬼神(善神)を表わした鬼面がにらみを利かせるのは邪悪なモノだけでございます。

もしその視線がお隣にまで向いているならば、その鬼は隣家の方々まで護っている働き者という捉え方が適切なのでございます。

 

とそうは言っても、そこで納得してしまわず、「ならば新しい装飾を付ければよい」と考えるのが当時の人の発想豊かなところでした。

目をつぶれば、
「強い視線がはばかられるってんなら、柔らかい視線にすりゃあどうか」
「だったら、いっそめでたい眼差しであればどうだ」

そんな職人同士の掛け合いが、まぶたの裏に浮かんで参ります。

なぜ私がそう想像するかと申しますと(読者さまも既に予想されておられるかと存じますが)、この時分からお恵比寿さんなどの、いわゆる「縁起物」を題材とした鬼瓦が登場する故でございます。

江戸期の例2

そして。
これが鬼瓦史全体を俯瞰したときの、大きな変化の最後となるのでございました。

時はすでに近代に近づいております。

かつて中国から瓦文化が入ってきたように、西洋から怒涛のごとく新しい文化が雪崩れ込んでくる時代が始まります。

生活様式が変わり、建築様式が変わり、レンガが工場や道を覆ってゆく世紀でございます。

不肖「立川流鬼瓦」が誕生するのもこの時代。
鬼瓦の変遷は、「歴史」から「現代」の物語へと移ってゆくのでございます。

僭越ながら、その物語の主人公を務めさせて頂いておりますのが、
今を生きる私共鬼師でございます――

 

 

 

→ 北川鬼瓦(立川流鬼瓦)のあゆみ

 

※記述内容には諸説ございます

 

 

 

2015年11月3日更新