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福井県越前市池の上町8-5-1
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この項では、現在「北川鬼瓦」と名乗っております当流派の沿革について述べさせていただきます。
現存する流派としては古く、その起こりは江戸末期に遡ります。
そこで当時の宮大工の最大勢力「信州立川流」一門の技術を、初代が鬼瓦造りに取り入れたのが「立川流鬼瓦」の始まりと云われております。
彼は鬼造りに長けていたようで、その腕を信州立川流の彫り物師に見込まれ細工技法を伝授された、というわけでございます。
この信州立川流は、精緻な彫り物技術にて全国に名をはせた大工集団で、今なお様々な資料でその名を目にすることがございます。
※(信州立川流については「信州立川流の歴史」ページにて詳記させて頂いております)
実は初代がどこの出身かは伝わっていないのですが、彫刻細工を学んでのち真っ直ぐに福井へやってきたことを考えますと、現在の福井県の生まれであったと推察されます。
かくして初代は、彫り物師の技法を取り入れた全く新しい鬼師として活動を始めたのでございます。
残念ながらその詳細は、現在に伝わる前に歴史の彼方に消えてしまいました。
ですが、二代目が現在の越前市でその跡を継いでいることから、初代もやはりこの地で大いにその腕を振るったことと想像いたします。
時代が、江戸から大正初期へと激変してゆく中でのことでございました。
その当時の世界は、時に戦火も交えながら大きく変動し、
日本では産業革命の嵐が、あらゆる伝統文化、工芸を呑み込んでゆく時流でございました。
そしてその大波の影響は、瓦業界も例外ではなく――
1900年代初頭。
鬼瓦は、型やプレス機械を使った大量生産品の時代へと移ろってゆきます。
県内ではすでに、手造り鬼瓦を継承する工房は北川鬼瓦のみとなっておりました。
当時の立川流継承者は、三代目・治郎左衛門(じろざえもん)。
やがて、二度目の世界大戦が終わり、戦後の復興期が幕を開けます。
その終戦の日のことを、のちに四代目を継ぐこととなる清栄(きよえ)はこう振り返ったことがございました。
「ああ、今日は戦闘機が飛んでえんのぉ」
と。
その日の空を見上げ、感じ取ったのだそうでございます。
このように清栄は、感性が人とはやや違う方へ向いた、別の申し方をするならば、一種の天才のような人間でございました。
そんな清栄が終戦を迎えたのは十六の歳。
当時は、どんな家の子でも学校というものへ行ける時代ではありません。
清栄は五男でしたが、父でもある三代目に、鬼造りを教えてほしいと頼み込みます。
清栄には他に5人の兄弟がおりましたが、その中で父の仕事を継ぎたいと申したのは、清栄だけだったそうでございます。
ところが。
当初三代目は、息子を鬼師にすることに、あまり乗り気ではなかったようでした
理由は上述させていただきました、大量生産時代のためでございます。
品質にさえ目をつむれば、安く早く瓦が出来る時代。
戦後復興の時期だからこそ、求められたのが早さだったことは想像に難くありません。
しかし。
プレス機の金型や石膏型には、バリエーションというものはございません。
一点ごとに細工を変えることも、
例えば、
「隣のお宅が鳳凰の鬼瓦だから、うちは龍を載せたい」
というお客様の要望に応えることもできない・・・
そこに治郎左衛門親子は、まだ鬼師の生きる道を見出したのでございました。
大量生産品が幅を利かせることに一時は嘆いた三代目。
ですが後年、
弟子とした清栄に彼は、「立川流をやってれば、食いっぱぐれるよおなことはないで」
と語ったそうでございます。
2015年3月18日更新