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福井県越前市の鬼瓦工房「北川鬼瓦」魔除け、厄除け、縁起物、手造り鬼瓦、
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信州立川流の歴史 1

現在我々北川鬼瓦が受け継いでおります流派は、「立川流鬼瓦」と申します。

系譜をたどれる日本最古にして唯一の、細工物の流派でございます。

 

ここで、「系譜をたどれる」と申しましたのは、この立川流には源流とも呼べる大元の流派がある故にございます。
それが、本項のタイトルにあります、「信州立川流」。
彫り物を得意とした宮大工の一門でございます。

 

おそらく寺社仏閣にお詳しい、この様なページにまでお目を通してくださる方には、ここからの内容はすでに常識のことばかりかもしれません。それでももしお時間ございましたら、最後までお付き合いいただければ幸いにございます。

 

 

さて、それでは。 
信州立川流を語るにあたり、ここではその基礎を作った初代を中心にお話をさせていただこうと思います。 初代は、その名を和四郎と申しました。

 

信州は諏訪の地で代々桶造りを生業としていた、塚原家の二男として生まれたそうでございます。1744年(延亨元年)のことと伝わっております。

 

桶職人の家に生まれたと聞くと、私などは
「なるほど、小さなころから木に触れて、自分で組んでみた桶に彫り物をして戯れていたのだな」

などと早合点してしまうのですが、資料を調べるとどうやらそうではなかったらしいようです。

どころか、家業には一切目をくれず、絵を描くことを好むたちだったと申します。

 

そんな幼少期を経て、和四郎は13になりました。今と違い江戸の昔の話でございますから、もう働かなければならない歳でございます。

それでも和四郎は桶造りを継ぐことはなく、江戸へと出て参りました。そして1年ほど呉服屋で奉公したのち、本所立川通りは宮大工の立川小兵衛富房に弟子入りするのです。

 

この立川富房は、江戸立川流の初代でありました。
和四郎は師のもとで大いに修業に励んだのでしょう。
六年後には、立川姓を許されるまでになっておりました。

 

職人のイロハ全てをたった六年で習得するというのは、大変な才能と評しても過言ではないかと思われます。

 

事実、和四郎はその腕を見込まれ、
「江戸立川流の跡継ぎに」
とまで小兵衛富房に請われたと伝わっております。

 

しかし和四郎はその要請を丁寧に辞し、代わりに師から一字を頂き、以後、富棟と名乗るようになるのでした。

 

さてはて。

こうして独立を認められ、故郷諏訪へ帰る富棟。

その足取りはきっと弾むように軽かったことでございましょう。

なにせ江戸は都の大工棟梁にその腕を認められたのですから。
諏訪の地を拠点に始まる大工としての人生に微塵の不安もあろうはずがございません。

 

と、

なれば、
立川和四郎富棟と信州立川流のあり方は、現在とは大きく違っていたことでしょう。

そう申しますのはつまり、諏訪での大工人生には大きな壁があったからでございます。

 

すでにその時代、その土地には、大隅流という彫り物において抜群の技能を持つ宮大工集団があったのです。

 

残念ながら、大隅流の腕前を見、当時の富棟は自分では彼らに勝てないことを悟ります。

 

悟りますが。

 

諦めはしなかった。

 

二年後、再び江戸へ上り、中沢五衛門という工匠に師事するのです。

この中沢五衛門の名は、徳川家霊廟の修復に関わる文書の中にも登場しております。
時の最高権力者の代々の霊廟に入り、触れ、修復することを認められた人物。

 

それが中沢五衛門という男。
彼が並大抵の名工でなかったことは想像に難くありません。

 

そしてまた、一度挫折したからこそ富棟は、これほどの大人物と出会えたとも申せましょう。

そんな五衛門の元で余すことなく細緻極まる技巧を吸収した富棟。

 

そして誕生したのが、
「信州立川流」でございました。

≫ 『信州立川流の歴史 2』

※本項の内容には諸説ございます

2015年2月8日更新