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彫り物を得意とする、宮大工の流派「信州立川流」の立ち上げ。
この時点で初代富棟の技能はすでに、並みの彫り物大工が比肩できるものではなかったことと存じます。
されど、 腕があれば仕事もあるかというとそうでもないのは、現代でも江戸時代でも同じ事。
一説では、その頃の富棟の仕事は祭りの屋台や、本格的な彫り物とは関係のない小さな置き物の製作依頼がほとんど。
せっかく一流の宮大工になる修業を重ねたにもかかわらず、それを活かせる場はあまりなかったと云います。
寺社の建造にも一応携わりはしたのですが、 それもほとんどが地元や近隣のものばかりでございました。
しかも記録の中には、前出の大隅流(つまり今でいう大手建築企業)との間でトラブルまであったと残されております。
そうした不運と、細々と言って言い過ぎでない仕事ながらもしかし、富棟は一心にそれらの作業に打ち込みました。
職人に出来ることは、結局それしかないのでございましょう。
故に。 その名と働きぶりは、 静かに、しかし確実に波紋のように広がってゆくことにもなるのです。
結果、転機が訪れました。
かの静岡浅間神社。その大工事でございます。
しかもこの工事には、幕府が携わっておりました。
そのことも大きかったのでしょう。
信州立川流の名はこの頃から、名声へと変わってゆきました。
残念ながら、初代立川和四郎の人生は、ここで終末を迎えることとなります。
ですが信州立川流は、二代・富昌が立派に継いでゆくことになるのでございます。
父・富棟によって生まれた波紋を広げることをやめず、諏訪から発生した流派を遠く関東、中部、幕府要職たちにまで伝わらせてゆくのです。
幕府要職からの大きな仕事の例としては、京都御所の門の建造などがございました。
また地元での依頼にも積極的であり、当時ですでに諏訪藩お抱え大工にまでなっておりました。
その名は名実ともに不動のものといってよく、富昌五十三の歳にはかの諏訪大社の建造にも携わってございます。
その後は江戸幕府も激動の時代を迎え、皆さまよくご存じのように明治という夜明けがやって参ります。
北川鬼瓦の初代は、この江戸時代終焉のころにその腕を見込まれ、信州立川流の技法を受け継いだわけでございます。
この様な細かい足跡まで後世に残っている。 それが最初に、私どもが系譜をたどれる最古の流派、と申し上げた由縁でございます。
そしてまた、長きに渡り磨き抜かれてきた技を絶やすことなく伝承してきたことが、我々の誇りとなっております。
(念のためにお断りしておきますと、これは現存する鬼師の系譜の話で、宮大工や彫り物師として最古という意味ではございません)
『信州立川流の歴史』についてはここで終了となります。
以降、どのようにして立川流の技法が現代まで受け継がれてきたかは、『北川鬼瓦のあゆみ』にてお話させて頂いております。
よろしければ、そちらも併せてご覧くださいませ。 →『北川鬼瓦のあゆみ』
※本項の内容には諸説ございます。
2015年2月7日更新